002.人間の身体と妖怪の心
人間と妖怪の融合―――にわかには信じがたい事ではあるが実際に見た者はこう語る。
「あの人間の女…何かあるんじゃないか?」
そう。珍しいものを目にしてその能力がわからない以上、霊界だけではなくどの世界でも生きる者は自分の手元に置いておこうとする。つまり監視という事だ。


(―――っ…ここは…一体…?)
天狼が目を覚ますと見慣れぬ天井が視界を覆った。…白い、白い真っ白な天井だ。ここはどこだろう、霊界か?それとも間違えて天界にでも来てしまったのだろうか。それほどまでに天井は白かった。
身体に力を入れ難なく起き上がると自分の異変にようやく気付いて目を見張る。
「こっ…これは…!?」
ガバッと自分に掛かっていた布団を剥ぎ取り、自分の姿を確認する為に窓を見る。しかし残念ながら窓から差し込む光で自分の姿は映らない。何か自分の姿が見えるものは無いのかと立ち上がるとベッドの上だという事に気付き、ここは明らかな人間界だと知らされた。
「何が―――あったんだ…」
あの時自分は死んだはずじゃなかったか。女に手を差し伸べられ自分の手に暖かい温もりを感じたと思った瞬間から記憶が途切れた。どうやってこの場所に運ばれたのかなんて検討も付かない。そしてふと少女の顔が目の前に出てきて驚いたように後ろに飛び退く。何故ならその少女はあの時見た少女と同じ顔のはずなのに険しい表情をしていたからだ。
しかし自分が飛び退くのと同時に少女もバッと飛び退いた。同じような格好で同じような体制で同じように構え同じように自分を見つめ―――そこまで考えてピタリと思考が止まった。目の前の少女もまた同じように間抜けな顔をしている。
「鏡…?」
呆気に取られて自分の足元を見てから再び鏡に視線を移すと、思考がイカれたのかと思った。何故なら自分の姿があの少女と全く同じになっていたのだから。
(―――ん…おはよう?)
頭の中で響く声。これはあの時の少女…つまり鏡に映っている少女のものではないか。
「どういう事だ!!」
思わず声に出して鏡の中の少女に掴みかかりそうになるが鏡というものは自分の姿を映すもの。同じように掴みかかろうとして間抜けな顔になってピタリと止まった。
(昨日あのまま居なくなっちゃったからどうしたのかと思ったけど)
少女の声が頭の中で響くという事から自分の中に少女が居ると悟ると一つの"有り得ない想像"が浮かんできてしまった。
「居なくなった…?俺が…?魔力もないのに…?でも俺はここに居る…」
それはもしや"融合"ではないのか?と思った瞬間、グラリとベッドに倒れこんだ。
(なんで!何で俺がこんな人間なんかと融合しちまったんだ…!)
有り得ないだろう、と布団に顔を埋めれば少女のにおいがした。
(あ…えっと、あの、私、綾っていうの。あの…名前…)
(天狼…の、稜だ)
乗せられたのかこれ以上余計なことを考えるのが馬鹿らしいとでも思ったのか天狼は深いため息をつきながら頭の中で話した。
(そっか。それじゃ稜君ね!えっと…それじゃあ、学校の時間だから準備しないと)
と少女…綾が口走った時に頭の中で悲鳴とも取れるような大声が響いた。

(うっそおお!!何で!どうして!!ああー私の身体がうーごーかーなーいー!!)

頭に響く声が天狼…稜にはとてつもなく苦痛だった。耳を塞いだところで頭の中に直接響いてくるものだから逃れようが無い。どうして!何で!うーごーけー!などと喚く綾の声にプツンと何かが切れたような感覚がした瞬間、稜は怒鳴っていた。
「うっせーんだよ!!ピーピー喚くなこのクソガキ!!」
ガバッと布団から起き上がって怒鳴れば頭の中で喚いていた声はピタリと止まったが変わりに物凄く大変な事になった。綾の家族の者が何事かと驚いて部屋にやってきてしまったのだ。
「どうしたの!?」
「どっ…」
どうもしねぇ!と答えそうになったが、バンッとドアを開けて入ってきたのは綾の母親だろうか?何て答えれば良いものかわからずガラにもなくオロオロしていると頭の中で声が響いた。
(何でもないの!朝ご飯はラーメンがいいな!!)
きっと綾は母親にそう言おうとしているのだろうけれど声は頭の中で響くばかり。稜もその事に気付いたのかたどたどしく綾に似せようとした奇妙な声でそのままのことを言った。
「ナ…ナンデモナイノ、アサゴハンハラーメンガイイナ!!」
我ながら何て恐ろしい声だと思いつつ自分がこんな事をさせられるなんて!と屈辱感で腸が煮えくり返りそうだ。母親はといえば微妙な視線で"風邪でもひいたの?"と奇妙な声を心配していたようだ。屈辱は二倍になりフツフツと怒りが込み上げてきたくらいだ。

難なく母親が部屋を出ると再び頭の中でキンキン声が響いた。
(りょーうくーん!かわってよー!私の身体かーーえーーしーーてーー!!)
とてもウルサイがここで怒鳴ったら先ほどの二の舞だと眉間に皺を寄せ平然を装う。
(代われるもんなら代わってやりてぇよ!俺だって好きでこんな身体なわけじゃ…!)
代わりたい―――そう思った瞬間に身体の力がガックリと抜け、次の瞬間には声すらもピタリと綾のものに変わっていた。
「あ、やった!戻った!」
嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる綾は時計を見て驚きバッと制服を掴み着替え、鞄を持って部屋を出た。その時間はまるで神業ともいうような…妖怪である稜からしてもコイツ何者?といった感じだった。けれど神業はまだまだ続く。リビングの椅子に座ったかと思えばズルズルとラーメンを食べ始め(朝からこんなこってりした物を食えるのかコイツは!)稜の関心をよそに、これまたミスマッチな紅茶を飲み干し、洗面所にむかい顔を洗い歯を磨き髪をすいて玄関に向かい靴を履き行って来ます!の掛け声と共に家を勢いよく飛び出したのだ。
この時間僅か10分。女の身で…妖怪でも女はこんな早く行動を済ませられるはずがないと不思議でしょうがなかった。


(ねえ稜君、そういえば何で稜君が私の中に居るの?)
そんなのこっちが聞きたい!と頭の中で怒鳴りそうになる衝動を抑えて良い具合にこの女のペースに乗せられたんだなと溜息を吐く。
(わからん。俺の想像だとお前が手を差し伸べた時…何かの切欠で融合したのかもしれない)
(融合!?わぁっ!それって何か凄い!)
何が凄いのか全くわからないがこっちにしてもらえば良い迷惑だと稜は再び溜息を吐いた。


綾がこれから何処へ向かうのかといえば学校。人間界にはとても退屈な日課があるらしいと稜は思いながら渋々同じ身体に入っている為についていく…というか一緒に行くしかなかった。
思った通り。学校とはとても退屈な場所で偉そうにベラベラと話している男(これを教師というらしい)の言葉や黒板に書かれた文字をノートに書き取る作業を延々繰り返していた。
(なあ、もっとこう…普通な事はないのか?)
静寂に堪えきれなくなったのか稜の声が頭に響いた。
(普通な事?これが普通じゃないのかな?)
きょとんとした声が頭に響いたが綾の表情は至って変わらない。寧ろ少しばかり強張っているようにも思えた。緊張の糸が張り詰めている感覚―――同じ身体に居ると全てがわかる。

退屈な時間を終えて再び自分の家へと帰ろうと綾が荷物をまとめた時、事は起こった。
「ねえ綾?ちょーっと付き合ってくんないかなぁ?」
「え…っ…?」
綾が顔を上げて目の前の人物を見上げると意地悪そうに女は笑った。

(オイ、普通の事―――あるじゃないか)
(こんなの、普通の事じゃない…)
これはいわゆるイジメというやつで稜はどこの世界でも弱い者は強い者に食われる…つまりいびられる事も同じだと実感した。
「アンタさー、小学校で苛められてたんだって?それでわざわざこの中学に来たんだ?」
「マジで?やーだ、逆に孤立してクールぶって気取っちゃってるんだぁ?」
「大人しいふりしてれば誰か助けてくれると思ってんでしょ?」
わらわらと集まる女…くだらない、と稜は思ったが綾はどうやら違うようだ。自分の身体でもあるから全てがわかる。足が微かに震え両手をギュッと握り締め歯を食いしばって視界がぼやける…涙を堪える。
「ブッってんじゃねーよ!」
ドン、と女の一人が綾を突き飛ばすとよろよろと壁に背中をぶつける。
(お前、バカじゃねーの?何でやり返さない)
(ダメだよ。やり返したって結果は見えてるもん…)
ああ、そうか。この女―――綾はもう全てを諦めているのか。俺とは全く正反対の生き物だ…と稜が考えると頭の中でただ一言「代われ」と言った。
けれど頑ななまでに綾は稜に代わろうとしない。彼女の中では"こんな思いをするのは自分だけで十分"という意思があった。同じ身体なんだからどっちでも同じようなものだろうと稜が思うと、目の前の女子生徒がパシンと音を立てて綾の頬を叩いた。

―――良い度胸してんじゃねぇか…

たかが人間ごときが、俺を殴るなんて真似するとは…随分粋がってんだな。と稜がニヤリと笑うと強引なまでに綾の魂…いや、人格というものを押し退け表に出た。
(だっ…ダメだよ稜君…!)
頭で響く声はもうどうでもいい。何よりもただ稜は目の前に群がる女達が許せなかった。
「舐めた真似してんじゃねぇぞ…」
ゾッとするような低い声…この声はきいた事がある。そう…"天狼"の声だ。自分の身体に入り自分の声帯を通していた稜は自分自身の声じゃなく"綾の声帯が出す自分の声"だった。けれど今の声は一層低く、天狼の時と同等の声だった。それほどまでに怒っていたのか。
「なっ…何よ」
一瞬たじろいだが多勢に無勢とでも思ったのかガシッと一人の女が綾の…いや、今は稜の腕を掴みもう片方の腕をまた一人の女が掴み、がっしりと固定された状態で別の女が平手をあげた。―――しかし鈍いビンタの音は響かず、代わりに目を細めてつまらなさそうにしている稜の姿があった。
「いっ……!」
一人の手をねじり上げもう一人を蹴り飛ばし、たった今ビンタを食らわせようとした女を睨みつけていた。
「もう終わりか…?弱いクセに粋がってんじゃねぇよ」
ギッと睨みつけると女たちは涙混じりに職員室へと向かっていった。
(たっ大変だよ稜君!先生呼ばれたらきっとお母さんに電話とかされちゃうんじゃない!?)
(くだらねぇ。そんな事でビビッてどうすんだ)
(あーもうっ!稜君が妖怪なのはわかってるけど私は人間なのっ!!)
だから人間らしく振舞えとでも言うのだろうか。自分は結果的に綾を守ったと思ったしお礼を言われこそ怒られる筋合いはないはずだけど…と稜は面倒そうに溜息を吐いた。


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